最近、AI技術を使って静止画から動画を作り出す「Image to Video」が話題になっています。写真だけだった過去の記憶が、まるでその瞬間が生き返ったかのように動き出す技術です。家族や歴史的な人物の古い写真が動き、話す姿を見て感動する人もいれば、そのリアリティに戸惑う人もいます。こうした技術の進化は、私たちがどのように思い出や歴史を残していくか、改めて考えさせられるきっかけになっているのではないでしょうか。そこでちょっとこのことについて話してみました。
私たちは日々、写真やビデオを使って自分の記憶や家族の思い出を記録しています。それらはデジタルデータとして保存され、いつでも振り返ることができるものです。しかし、AI技術の進化により、私たちが未来に残すものは記録以上のものになる可能性があります。AIを使って故人や自分の姿、歴史や文化を残すことができる時代が、すぐそこまで来ているのです。
AIを使って故人の姿を再現する技術が話題になることがあります。亡くなった親や祖父母が再び「話す」姿を目にしたとき、家族はその人の存在を感じ、心が癒されることもあるでしょう。デジタル技術によって、過去の思い出がまるで今も続いているかのように甦る瞬間は、感動をもたらすと同時に、深い倫理的な問いかけを私たちに投げかけます。
それは、私たちが本当に望んでいることなのか? 死後、自分がAIによって「再現」され、デジタルの世界で永遠に生き続けることをどう感じるでしょうか?その「自分」は果たして本物と言えるのか?
技術的には、私たちの言動や表情、声をAIが学習し、私たちに似た存在を生み出すことは可能です。しかし、そのAIの言葉や行動は、私たちが実際に言いたかったこととは異なるかもしれません。自分が亡くなった後に残される「AI化された自分」は、本当に私自身を反映しているのか、あるいはそれはただのシミュレーションに過ぎないのか、疑問は尽きません。
さらに、歴史や文化をAIで残すことについても考える必要があります。大切な文化遺産や歴史的な人物がAIによって「再現」されることで、次世代に伝える手段は広がります。AIは過去の知識を学び、未来に向けてそれを生かすことができるかもしれません。しかし、それが本当に正しい形で残されているのかを見極めるのは、技術だけではなく私たち自身の責任でもあります。
歴史や文化、そして故人の記憶は、時に「忘れられること」によってその本質が守られることもあります。すべてを残し、すべてを未来へ伝えることが、必ずしも良い結果をもたらすわけではないのです。失われることにも価値がある場合があり、その選択は個々人の判断に委ねられるべきでしょう。
最終的に、私たちが考えなければならないのは、どのように自分の思いや歴史を後世に伝えたいか、また、伝えるべきかということです。AI技術は私たちにその選択肢を広げていますが、同時に深い責任をも課しています。自分の姿を未来にどう残したいのか? それとも、残さずに自然と消えていくことに価値を見出すのか?
この問いに答えを出すために、今一度、自分の生き方やその価値について深く考えてみる必要があります。